hamumattariの日記

40代後半の人付き合いが苦手でこもりがち&ほぼ専業主婦の忘備録です。

あれから10年

今日はお兄ちゃんの作業所が急遽午後まで作業が入ることになったので、お昼は久しぶりに旦那さんと二人でした。

さっきまでお兄ちゃんの部屋の片付けをしていました。

その後、YouTube東日本大震災の追悼式の中継をみていました。

2時46分にPCの前で黙とうを捧げました。。。

 

当時の事を忘備録として少し書いておきます。

我が家の地元は震源から離れていて、震度も5強程度で、被害も少ない場所でした。

それでも自分にとっては今までの人生で経験したことがない経験でした。

 

当時は自宅で金魚を飼っていたのですが、その日は朝から金魚がいやに水槽の中でぐるぐると必死に泳ぎ回っていたので、朝旦那さんともうちょっと大きい水槽を用意したほうがいいのかな~などとのんきな会話をしていました。

その日は家族を送り出した後、午前中にお兄ちゃんの学校のPTAの校内清掃のボランティアに参加して、帰ってきてお昼を食べてから、夕飯の支度の下ごしらえをしながら娘の習い事の送迎に行く準備をしていました。

 

最初に小さな揺れがぐらっと来たので、鍋の火を止めて、慌てて我が家で当時一番安全だったリビングの端に座り込みました。

すると今度は大きな揺れがやってきました。

今までに経験したことのない激しい揺れに家が壊れるんじゃないかという恐怖に襲われました。

窓の外で電信柱が前後左右に大きくしなっているのを人生で初めて見ました。。。。

 

揺れている間、「怖いよ・・・・でもこの辺りが震源ならいいのにな・。。。]

と心の中で祈っていました。

 

 震度5を超えたので、ガスは止まりました(←安全装置が働いてメーターが止まっただけだったので、後で自分で解除しました。)が電気や水道は大丈夫でした。

 

地震の情報をと思い、テレビをつけました。

東北の街でした。(岩手の大船渡でした)

街に設置されていた固定カメラからの中継で道に避難するためにたくさんの車が渋滞している風景が出ていました。

そこへ海から津波が襲いかかって車を押し流して街を破壊していくのが見えました。。

 

娘は登校班で一緒だった子のお母さんに他の子たちと一緒に車に乗せてもらって帰ってきました。お兄ちゃんはヘルパーさん学校まで迎えに行ってもらってそのまま夜まで図書館やマックで一緒に過ごしてもらうようにしていたので、とりあえず何度かヘルパーさんに電話とメールをしたのですが、通信が混雑してしまいなかなか連絡がつきませんでした(16時過ぎくらいになってやっとヘルパーさんからお兄ちゃんもみんな無事だとの連絡が届き、当初お願いしていた17時頃に無事帰ってきました。)。。。。

旦那さんは運よく1回で電話が会社につながり、無事を確認できましたが、交通機関が完全にマヒしてしまったので、都内の会社から3時間以上歩いて帰ってきました。(自宅から会社まで10キロ圏内だったので、ギリギリ歩いてこれたそうです。友人の旦那さんは家と会社の距離がもっと離れていたので、帰宅難民になるリスクを考えて、会社に一晩泊まったそうです。そういう方がたくさんいました。)

その日のテレビは当然ですが、震災一色でした。被災地の津波や火災などの光景と交通機関がマヒしてしまって、バスやタクシーの乗り場に大行列ができた都内が交互に何度も何度も映し出されていました。その右下に、太平洋側の沿岸の津波警報の赤いラインがくっきりと浮かび上がった日本地図が張り付いていました。

それでも被害がほとんどなかったので、帰ってきた子供たちの荷物や地震で物が散らばっていた部屋を片付け、ガスの復旧をして食事の支度にとりかかりました。 

その間にも震度4くらいの余震が何回も起きてそのたびに心臓が止まりそうな気分でした。。。。

ただ娘は割と冷静で淡々としていました。

お兄ちゃんも特に不安定になることもなくいつも通りだったのにも助けられました。

一番動揺していたのはたぶん自分だったんではないかと今となっては思います。

 

今日は当時の事を書かせていただきました。

 

また明日からは通常の記事に戻す予定です。

 

ではまた。